「『一人ひとりみんな違う』でいいじゃないか、と僕は思ってしまいます」超話題の映画『正欲』稲垣吾郎さんインタビュー
『半世界』『ばるぼら』『窓辺にて』と、近年は作家性が色濃く反映された作品への出演が続く稲垣吾郎。彼の最新主演映画は、「桐島、部活やめるってよ」「何者」などで知られる小説家・朝井リョウによる人気小説を『あゝ、荒野』の岸善幸監督が映画化した『正欲』(11月10日公開)。
人には言えない価値観を抱えた5人の人生が、交錯していく群像劇。新垣結衣や磯村勇斗といった豪華な面々が、生きづらさを抱えた人々を熱演している。そんななか、稲垣が扮した寺井啓喜は、厳格な検事。一人息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と衝突している人物だ。正しいと信じて取った行動が、波紋を呼んでいき……。
取材用のスチール撮影の場ではotona MUSEの編集長になりきって即興芝居を繰り出し、場を和ませた稲垣。作品の舞台裏と共に、「普通とは何か?」といったテーマに対する自身の考えを語っていただいた。
――本作を拝見して、“普通”とは何か改めて考えさせられました。稲垣さんはこの言葉に対して、どんな印象をお持ちですか?
稲垣 僕は高校生くらいのときに「普通じゃない」とよく言われてすごく嫌だった記憶がありますが、いまはそれが誉め言葉になってもいますよね。僕自身は、「異端であれ」ではないですが、はみ出ることの面白さを意識しながら活動しています。表現する人間は普通じゃないことが称賛されるといいますか、その人の“個性”として認知されていくところがあります。
ある種の基準、ベースラインを「普通」と呼ぶなら、そこからズレているものを「トガっている」「異端」とするのでしょうが、どっちもあって良いものじゃないかと思います。大事なのは、人の気持ちがわかるかどうかなのではないでしょうか。個性的なのは良いことだけど、空気が読めずに協調性がなさすぎるとまとまりがつかなくなってしまうし、みんなで輪になって繋がることも必要。何かがダメというわけではなく、自分と違うことを認める=人の気持ちを考えられることが大切だと思います。
僕らのような人間が「自分たちは個性的でいいや」と思えるのは、“普通”というベースがあるからですしね。たとえば日本人の「勤勉さ」や「真面目さ」「硬さ」といったイメージ、地盤を作ってくれた人たちがいることで、守られてきたものもあると感じます。
それに「普通」というけど、みんな心の中で思っていることや自分の内省的な部分ではとんでもないことを考えていたりするものですよね。そういう意味では、ズレていても面白いし、基準値からズレていることもまた“普通”なのかもしれません。
――稲垣さんが本作で演じられた寺井啓喜は自分の中に絶対的な「正しさ」がある人物ですが、悪意があるわけではなく息子の将来を思うあまり管理しすぎてしまう……という側面もありますよね。僕自身も小さい子どもがいるので、今後の接し方について学ぶところが多くありました。
稲垣 そう言っていただけて嬉しいです。僕自身は子どもがいないので、息子さんがいらっしゃる岸監督にも親の気持ちを聞きながら演じていきました。でも僕も、心配になる気持ちはよくわかります。SNSは危険も隣り合わせですが、デジタルネイティブの子たちからすると避けられない「あって当然なもの」でしょうし、SNSを通してつながっていく関係性に親御さんも慣れていかないといけないのかもしれません。僕はどちらかというとアナログ人間で、1人でいることを楽しめてしまうタイプですが、いろいろと考えさせられますよね。
啓喜は検事という仕事もあり、ある程度自分のルールを作っていかなければならなかったり、家族を守ることを念頭に置いた行動をしてきた人物だと捉えています。その彼が乱れて、崩れて、揺らいでいく姿を一つのエンターテインメントとして面白く映すことができたらいいなと考えていました。映画は脚本の順番通りに撮っていくわけではないので、岸監督と「いまはどのくらいの乱れ具合で行きましょうか」とすり合わせながら作っていきました。
――啓喜が崩れていくにしたがって、哀愁も増していきますね。
稲垣 本人は「これが正しい」と思ってやってきたのに、家族の中で取り残されていくのは切ないですよね。いまでこそ「多様性」の名の下に個性的であることが認められていますが、昔は啓喜のような考えの人たちは多かったと思うし、そういう風に同調していかないといけない風潮もあったでしょうしね。そうした典型的な人の代表でもある啓喜に共感してくれる方もいるんじゃないかと感じます。
interview:SYO
styling:AKINO KUROSAWA hair & make-up:JUNKO KANEDA
photograph:KATSUYA NAGATA(aosora)