今月のシネマミューズは? アカデミー賞主要賞候補作品で特別異彩を放っていた『TAR/ター』主演のケイト・ブランシェット。
未体験のスリルとサスペンスを、たったひとりで
今年のアカデミー賞主要賞候補のなかでも、特別に異彩を放っていたのが『TAR/ター』。結果は無冠に終わったものの、出てくる評判やパロディは主演のケイト・ブランシェットのことばかり。ひとり芝居じゃないのに、これほどのインパクトを与える作品とは? 監督も「これはケイトの作品」と言い切っているのだが、ケイトはどう考えているのか。
「私が演じたリディア・ターは、権威のある地位に就いている人特有の不可解さがあるの。特に、ドイツのオーケストラには終身在職権があるから、そういうお高くとまった人たちが多くいる。だから演じる上では、そんな不可解なキャラクターをどう表現するかがカギとなった。観客がターの体験に共感できるような場面を作ることも重要だった。彼女は、自分のことをあまり分かっていない人だったから」
リディアはベルリン・フィルで女性で初めて首席指揮者になった、世界的注目を浴びるアーティスト。苦労に苦労を重ねて、とんでもないキャリアを築き、あらゆる賞を総なめ。名門オーケストラの団員たちも全幅の信頼をおいていて、パートナーと子どもにも恵まれた。いわば全てを手にした女性だ。
「まずは、イリヤ・ムーシンの音楽セミナーと、アントニア・ブリコについての熱いドキュメンタリーを参考にした。ターが目指していた指揮者像として、クラウディオ・アバド、カルロス・クライバーなどの映像を観たわ。指揮は言語であり、クリエイティブなコミュニケーション手段だから、指揮者によって癖があって、人によって異なるの。身振りを言葉のように使うという特殊な体験のおかげで、天才音楽家を演じる上での心構えもできたし、彼女への理解も深まったと思う。あと、ピアノ、アメリカ英語、ドイツ語のレッスンを受けた。彼女という人物を構成する基本的で専門的なスキルは、全て習得しなければならなかったから。でも、これは彼女にとってはただの構成要素でしかない。単に指揮者の仕事を描いた作品というわけではないから、こうしたスキルは彼女にとっては呼吸と同じくらい当たり前のことなの」
このリサーチゆえに、スクリーンに映し出されるケイトは、天才指揮者リディアにしか見えない。まるで呼吸するかのように、専門知識をペラペラ、指揮台に立った彼女はプロそもの。ひとり芝居じゃないのに、彼女だけが浮かび上がる。まるでドキュメンタリーのようだ。
「そんな彼女は自分にとても厳しくて、完璧なら誰にも傷つけられないという考え方に無意識に囚われていているの。でも、芸術において、完璧はあり得ない。芸術は不完全で曖昧なものだらけ。そんなところに摩擦が生まれてしまうの」
権力と自我の間で崩れていくひとりの天才。この崩壊劇、未体験のスリルとサスペンスしかない。
text:MASAMICHI YOSHIHIRO