━━━夏に生まれた私は、この真新しい夏を謳歌する。作家LiLy書き下ろし小説「媚薬と天然石」 vol.4【セルフラブ】
「まずは自分で自分を愛さなきゃ」って書いてあった自己啓発本ならとっくに捨てた。━━━ 全く簡単ではない、セルフLOVE。小誌でもおなじみの人気作家・LiLyさんによる“セルフラブ”をテーマにした、完全書き下ろしの短編小説をお送りします。━━━ あと何日たてば、自分で自分を愛しきれるか。 失恋を経て生まれ変わる、カウントダウン小説。
「媚薬と天然石」
32日経過>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
互いのスケジュールを調整して、やっとランチの約束ができた日は雨だった。もうじき東京も梅雨入りするらしい。ビニール傘越しに青信号を確認し、表参道の交差点を渡り出す。向こう側にいる親友は、上品な黒い傘をさしている。
小走りで駆け寄ってきた親友は、私を見るなり大きな目をさらに丸くして見せた。
「ねぇ、また綺麗になった? 同じ歳だよね、なんで!?」
「えぇ、いつも優しいなぁ! 色々あったから優しさが染み入るよ」
「なんでも聞くし、早くお寿司食べて元気だそう!」
大学時代に教室を移動する時にもしていたように、親友は軽やかに私の腕を組んで歩き出す。「ちょっと、傘が目に入るってば!」笑いながら彼女の腕を軽く押すと、彼女の髪から柑橘系の香りが舞った。もっと早く会えば良かった。腕越しに伝わる大好きな人の温もりひとつでうっかり泣きそうになる。
グルメな彼女が会員になっている会員制のお寿司屋さんは地下にある。聞いてほしい失恋話があると言ったら、一番奥の個室を予約してくれた。熱い緑茶を一口飲んでから、私はため息とともに切り出した。
「……既婚者だったんだ。よくある話で、本当に情けないけどね」
こうやって彼との恋を誰かに話すことで、「よくある話」にされたくなかった。でも今は、こうして自ら「よくある話」に片付けてしまいたいと思っている。ようやく、そう思えるところまでたどり着けた。
「それは、酷い話だね……」
たとえ相手が親友であっても、「恋」とは二人の人間の間で起きることだから、第三者である他人に正確に伝えること/伝わることなど不可能で、心の中に存在していた彼への純粋な想いは、自分や相手の口から出る言葉でこうして汚れてゆく。
「これもまた多くの人が言うことだと思うけど、私、本当に気づかなかった。バカだよね」
思い出をあえて汚すことで完全に復活できるのなら、今はもう「その手」だってもう私は使っていく。
優しい声で「バカじゃない」と繰り返す親友からは、動揺と、慎重に言葉を選ぼうとしてくれていることが伝わってきた。彼女自身は、去年結婚したばかりなのだ。
「…なんでわかったの?」
「三度目のデートで、突然彼から言われたの。頭を下げて謝られて、これで終わりにしたいって一方的に振られちゃったの」
「……デートには、彼から誘われていたってこと? そもそもどこで出会った人なの?」
目の前に運ばれてきた茶碗蒸しに手もつけず、親友は私のほうに前のめりになっている。
「えっと、仕事帰りにたまたま一人で入ったバーで出会ったから、共通の知り合いとかもいなくって。突然の土砂降りでね、雨宿りするために入ったんだけど、バーカウンターで同じようにスーツを濡らした彼が一人で飲んでたの。普段は馴染み客しかいないような小さなバーでさ。隣に座ったことで自然と話し始めて、指輪もつけていなかったし、過去の恋愛について話している時に“元カノ”ってワードが自然に出たりしていたから、独身だって私は勝手に思い込んだんだよね。人は、自分が信じたいように他人を見るって本当だなぁって今思うよ……」
「……彼は、なんて言ってきたの?」
「……魅力を感じてしまって、どうしても言い出せなくて、会いたい気持ちも抑えられなかったけど、実は結婚していますって。隠していて本当に申し訳ないって。ここで終わらせることが自分にできるせめてもの誠意だと思ったって」
「へぇ……」親友が、初めて白けた声を出した。「なんかそれって、良い人アピールにも聞こえるというか、もう既婚者でもいいですって言われようとしてない? やることやっておいて良い人ヅラする人って、ごめんね、悪く言いたいわけじゃないんだけど、私、それだけは本当に……」
「ううん」私は少しムキになってすぐに否定した。「身体の関係はなかったの。キスもしていないのよ。だから今ここで終わらせようって意味もあったとは思う。あと、終わらせる意思は彼のほうが固かった。お互いここでLINEを消しましょうって言われたんだもの」
「え……それはそれで一方的すぎない? 相手の気持ちは無視して自分都合でしかない」
私の彼をかばうような言い方が気に入らないのか、親友の言葉がキツくなる。彼を忘れたくって話しているのに、それでも彼のことを悪くは言われたくはなくて言葉に詰まる。
「…うん」
「あ、ごめん。人それぞれ事情はあるもんね?」
「ううん、私も気持ちを無視されたって感じたよ。急に色々言われても頭が混乱しているから、今ここでLINEを消せって言われても……ってその場で言ったの。そしたら、自分は意思が弱いから、負けてしまうと思うから、俺は今、あなたの目の前で消しますって本当に消したのよ」
「それは、傷つくよね…」
「うん……。本当に傷ついたよ」
初めて自分の感情を言葉にして人に話したら、想像していた以上に惨めな気持ちになってしまった。今何か言えば泣いてしまいそうで、私は黙って茶碗蒸しの蓋をあける。
「もちろん、彼だって苦渋の選択だったと思うよ? だって、こんな美人で優しい女にはなかなか出会えたもんじゃないもん、これはもう、友達の贔屓目でもなんでもなくて真実だよ? ……でも、彼もよくそんなふうにバッサリと関係を終われたね…」
「…奥さんが、妊娠したんだって」
「……え」
「三人目なんだって……」
「……」
それを聞いた時に私がそうしたように、親友は絶句した。
「だからさ、夫婦関係はうまくいってるんだよね。私に好意を抱いたのは本当でも、それはそれこれはこれ、でふつうに愛し合っているんだと思うよ?」
「ふつうに、ねぇ…」
「……平均以上に、かもしれないね。三人目、だもんねえ」
言ってしまってからハッとした。今、不妊治療中の彼女に対して無神経な発言だった。でも、謝るのも失礼な気がして黙っていると、いいのいいのって顔をして、真っ直ぐに腕を伸ばして私の手をそっと握ってくれた。
「私は結婚している立場だけど、それでもこの年齢にもなれば、愛している大切な家族がいても、それとは別で他の人と恋に落ちることはあるって、理解できるじゃない? もちろんそうならない人もいる。でも、そうなる人のことが全く理解できないって人がもし本当にいるとしたら、それは経験不足でしかないって思う。だから、彼の恋心そのものは純粋な気持ちだったと思うよ」
「…うん。それはそうだったって信じてるよ……。あとは、彼はいい旦那さんをしていると思う。良いパパでもあるんだと思う。私、今回の何が一番辛かったって、結婚はもうしないでいいなぁって本気で思っていたのに、彼と出会ったら、この人となら結婚したいかもしれないなぁって思っちゃったってことなの。自分の人生計画まで揺らいじゃって、本当バカだよ…」
「バカじゃないよ。私はむしろ、そっちの方がずっと自然だと思う」
「そっちって?」
「人生プランって、仕事とかなら自分で決めるのも大事だけど、でも恋愛とか結婚とかのご縁の話は、また別じゃない? どんな人と出会うかによってしたいことが変わるほうが自然だよ」
「そう、か。うん。なんか、適齢期の強烈なプレッシャーに疲れ果てて、結婚に対する考えが凝り固まっちゃったんだろうね。でも、もう、適齢期からは外れていくじゃない? 年齢のほうが。なら、ここからはまたゆるやかに自然体に戻れるのかもね。うん、戻れたらいいな……」
大学の同期で結婚していないのは私だけで、だからこそ去年までは独身だった彼女と一番仲が良くて、最後の独身になってしまったことにどこかで引目を感じていた。だから、こんなふうに素直に話してしまったことがなんだか恥ずかしくて、私はうつむいて茶碗蒸しを食べ始めた。
「なっちゃん」
急に名前を呼ばれて顔を上げる。
「18歳の時から知ってるけど、今が一番綺麗だね。肌艶も、信じられないくらいいし、辛いことがあったなんて外からは全くわからない。女でも見惚れちゃうレベルだよ」
「……それは、言い過ぎよ。嬉しいけど……ありがと、だけど」
「さっき駅で雑誌の広告を見たんだけどね、37歳、輝く季節が始まるってコピーだったの。なっちゃんのことだよ。もうすぐでしょ、誕生日。夏生まれのなっちゃんだもんね? きっとここからヤバイと思うよ。今のなっちゃんが落とせない男なんて東京にはいないと思う!」
調子が狂うほどのベタ褒めに、私は思わず笑ってしまった。
「東京にはいないって、うける。世界にはいるけどってところがリアルすぎて、逆にめっちゃ嬉しい、アハハ、ありがとー!」
「アハ、リアルでしょ? でも、なっちゃん引く手数多よ! 忙しくなるよ!」
「恋愛も結婚もいいんだけど、私、今は、セックスがしたいなぁ」
「ッ!? え? そんなキャラだったっけ?」
目をまん丸にして、声まで裏返った親友を見て私はまた笑ってしまう。
「本当に最近気づいたことなんだけどね、こういうのってキャラとかじゃないのよ。ほら、大学時代によくSATCの中だとどのキャラに似てるかって話をしたじゃない? サマンサには憧れるけど自分は絶対になれないってみんなで言ってたじゃない?
でも、性に関しては、性格云々の問題ではなくて、快感を知っているか知らないかだけなの、きっと。一度知ってしまったら、もうそれ以前の自分には戻れないってことだと思う」
「……今日、色々と衝撃的な話を聞いたけど、今のが一番ビックリした。彼とはしてないんでしょ? なら、その後に何があったの?」
握りたてのお寿司が運ばれてきたので、私たちはハッとなって押し黙った。目を見合わせて、肩を震わせて笑いを噛み殺していると、大学の授業中を思い出す。「それはまた今度教えるね」「いやだよ、気になるじゃない」「…ヒントは、媚薬?」「ちょっと詳しく!」「ココナッツの香りがする媚薬を石に…」「え?」「この先は、ちょっとお寿司を食べながらする話でもないから」「え、ヤダ何それ寿司の下ネタ? サマンサじゃん!」「やめて、これ以上笑わせないで!」「そっちじゃん!」
―失恋以来、初めて、涙が出るほど爆笑した。
友達は、人生の宝物。
<<<<<<<<<<<<< 夏 >>>>>>>>>>>>
スマホの不快なアラーム音がスヌーズ機能で鳴り続けている。消しては寝落ちして、を何度も繰り返しながら、その隙間で今日は休みで約束があるのは夜だということを認識した。アラームを完全にオフにすると、睡眠をこのまま貪り尽くせる喜びに心が満ちた。
快楽の絶頂に達して果てた後の深い睡眠は格別で、隣に男がいないところも眠るには最適で、柔らかなシーツの中にすべてが溶けていってしまいそう。
身体に巻きつけた羽毛布団はフワフワと軽く、クーラーが適温に冷やし続ける寝室の中は心地よく、すぐにまた私の全身をくまなく侵してゆく睡魔の引力がたまらなく気持ちいい。
夕方、デートの準備をするために目覚めたら、今夜するかもしれないセックスに胸を高ならせながら念入りに化粧をする。ファーストデートからそんな期待をする自分は初めてだった。失恋から立ち直って通常時の自分に戻ったどころか、私はまた新たに生まれたのかもしれない。
新しい自分も、今のこの暮らしも、とても気に入っている。
変化し続けるのが常だから、いい感じの今というものを永遠には保てないことはわかっている。それでも、真逆のレイヤーが今、奇跡のようなバランスで二層に重なり合っていて、それは今の私の人生ステージの中に確かに存在しているのだ。
ここにあるのは、「不安とは無縁の自由」。得てから気づく、これこそが最も欲しいものだった―遠のく意識の中で最後に心から思ったら、安心して深い眠りへと落っこちていけた。
夏に生まれた私は、この真新しい夏を謳歌する。
< 「GOAL」
otona MUSE 2023年7月号より